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岡本太郎と第五福竜丸事件

現在、川崎市岡本太郎美術館では「戦後80年 《明日の神話》 次世代につなぐ 原爆×芸術」展が催されています。代表作である《明日の神話》、渋谷駅には巨大壁画『明日の神話』がありますが、ここには原画が展示されています。また『死の灰』と題された作品が2つ展示されています。

Geminiさんによると、

岡本太郎は、この第五福竜丸事件に強い衝撃を受け、作品『明日の神話』のモチーフに取り入れたと言われています。ビキニ環礁の水爆実験は、まさに「明日を破壊する神話」そのものであり、その悲劇を乗り越え、力強く生きる人間の姿を描こうとしました。

『死の灰』という作品は、この事件で被曝した人々や、核の恐怖、そしてその中から生まれる生命力や希望を表現したものです。岡本太郎は、この事件を個人的な悲劇としてだけでなく、人類全体が直面する大きな問題として捉え、芸術を通してそのメッセージを伝えようとしました。

そして、第五福竜丸事件とは

1954年3月1日、静岡県焼津港の遠洋漁船「第五福竜丸」が、太平洋のビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験「ブラボー」に遭遇しました。この実験は当初の予測をはるかに超える規模で、船員たちは放射性降下物、つまり「死の灰」を浴びて被曝しました。

この事件により、23人の船員全員が急性放射線症にかかり、半年後には無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。このことは、当時、漁船の乗組員が被曝した初の事件として日本中に大きな衝撃を与え、反核・反戦運動が全国的に高まるきっかけとなりました。

先日に川崎市岡本太郎美術館訪れて、「死の灰」が気になって家に帰ってから少し調べてました。GeminiやChatGPTなどのAIに頼ってのさらにはwikiなど検索するという、机上のみになっていたので、夢の島にある、東京都立第五福竜丸展示館へ伺いました。

実物の「第五福竜丸」が展示されています。

そして詳しい説明。1954年3月1日第五福竜丸は、実験場から約160km離れた場所で操業中、大量の「死の灰」(放射性降下物)を浴びてしまいました。下の写真にあるガイガーカウンターで計測すると放射能に侵されたマグロが多く出てみており、騒動にもなっています。「第五福竜丸」以外にも、政府調査によれば同時に被曝した船が1422隻あったといいます(主な船は黒文字)。また近海で取れたマグロや魚介の放射能に汚染(赤点)、さらには、広範囲に、日本国土にも放射能雨も降ったとのことです。この水爆は広島原爆の1000倍以上と云われていますので被害も甚大でした。当然ながら日本人以外も被爆者が多くいます。

ちなみに被ばくという表現、『「被曝」と「被爆」は、どちらも「ひばく」と読み、漢字もよく似ていますが、意味はまったく違います。「被曝」は、放射線に曝(さら)されること。つまり、放射線を受ける(浴びる)という意味です。一方、爆発の爆の字を使う「被爆」は、爆撃によって被害を受けることを表します。』とのことです。

日本は広島長崎での原爆があり唯一の被爆国ですが、原水爆の実験は世界で今でも行われており、被ばく者は世界中にいます。ノーベル平和賞の受賞も、被ばくの実態を知ってもらい、廃絶になる願いで、素晴らしい出来事です。

外にも展示があります。このスクリューを動かすためのエンジン。廃船後、他の船で使われており沈んでしまったとのことですが、引き揚げてここに展示がされています。マグロ塚。実際には水爆の実験でしたが、汚染されたマグロは「原爆」のイメージから「原爆マグロ」や「原子マグロ」と云われていました。汚染されたマグロは築地市場場内の地中に埋められとのこと。その後、埋めた場所には第五福竜丸事件を伝えるため「原爆マグロ」の塚が建立されるはずが、整備中を理由に場内でなく、ここに建立されています。仮のはずがずっとここにあるようです。

第五福竜丸は 1947 年に和歌山県古座町(現・串本町)でカツオ漁船第七事代丸として建造されました。全長約 30 メートル、高さ 15 メートル、幅 6 メートル、総トン数 140 トンの木造船です。戦後の食糧難の時代に遠洋漁業に従事した木造船としてきわめて
貴重です。 1951年静岡県金指造船所で遠洋マグロ漁船に改良され、第五福竜丸になります。当時は冷蔵庫が無いので氷を大量に積んで漁に出たそうです。水爆実験の被災で第五福竜丸は日本政府に買い取られています。(実質補償ですね)。東京水産大の練習船「はやぶさ丸」になりました。この改造において三重の造船所で改造されましたが反対運動があったようです。 1967 年に廃船処分となり、解体業者に払い下げられ、船体はゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置されました。(いまは下の写真のようにきれいになっていますが当時はゴミの山でした。)これを知った市民のあいだから保存のうごきがおこり、「沈めてよいか第五福竜丸」の投書(朝日新聞 68 年 3 月 10 日)や原水爆禁止運動など全国で取り組みがすすめられました。1976 年 6 月に東京都立第五福竜丸展示館が開館し、船は展示・公開されました。

『久保山愛吉記念碑』
被爆から半年後に亡くなった久保山愛吉無線長の記念碑があります。久保山さんが遺した「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という言葉が刻まれています。1976年5月、展示館の開館を記念して設置されました。

この思いは久保山愛吉も岡本太郎も同じでしょう。
ここ、第五福竜丸展示館はぜひ多くの人に訪れてほしい場所です。

DATA  

この日の機材
LEICA M10-P
フォクトレンダー Voigtlander APO-LANTHAR 28mm F2 Aspherical VM

 行った日
2025年8月

 行ったところ